インスタント・ブランド

最近のお昼は、カロリーメイトとスープ。
たまご屋のお弁当は、他に頼む人がいなくなって
しまったので、一旦休止にしている。
まぁ、味付けの傾向が一緒なので、飽きると言えば
飽きるわな。
それに、妙に栄養価が高いのか、きちんと食べると
太ってしまって、実は少々困っていたのである。
そうしたところ、上記のメニューに変えてからは、
少しづつ体重も落ち始めている。
体調も悪くないし、いい感じ。
で、スープを選ぶのが小さな楽しみだったりするの
だが、わたしのお気に入りメーカーはアサヒフード。
ここの味付けは、個人的にストライクゾーンの
ど真ん中に入ってくる。
今日は新発売の「スープごはん 海鮮とろみ飯」を
食べてみたのだが、やっぱりおいしかった。
ちょっと幸せすら感じてしまう味である。
もちろん味覚のことなので、相当程度主観的では
あるのだが、アサヒフードはわたしにとって
ちょっとしたブランドになっている。
商品開発の人に会ってみたいとすら思うのである。

『勝者の代償』

昨日、一昨日と勝負について書いたが、種明かしというか事情を
言えば、これはひとえに掲題の書籍に影響されたから。
少し時間がかかったが、本日読了した。
さて、われわれは現在、インターネット・ショッピングに象徴
されるニューエコノミーと呼ばれる時代にいる。
オールドエコノミー(とは、20世紀的な大量生産型の経済)が
ヴァリエーションの少ない選択肢で成り立っていたのに対し、
ニューエコノミーの特徴は、圧倒的な自由度の高さである。
サービスは細分化し、膨大な選択肢の中から、安価で品質の良い
ものを手に入れられるようになった。
が、そうした経済構造こそ、われわれの収入を不安定にし、
ストレスを倍増させている原因でもある、と著者は指摘する。
曰く
「買い手としての私たちにとって、より良いサービスを求める
選択が簡単になればなるほど、売り手としての私たちは消費者を
つなぎとめ、顧客を維持し、機会をとらえ、契約を取るために、
ますます激しく闘わなければならなくなる。この結果、私たちの
生活はますます狂乱状態となる。」
現在、平均的なアメリカ人はヨーロッパ人よりも年間350時間
多く働き、それは日本人をも凌駕しているという。
低所得者は生活を維持するために長時間働かなければならないが、
高所得者もまた勝ち続けるために長時間働かなければならない。
いや、勝っている者が不安にかられてさらに闘い続けることこそ、
ニューエコノミーの特徴であるらしい。
結果、「稼げる時に稼いでおく(勝てる時に勝っておく)」
というメンタリティが生まれ、ウォール街に(税金からなおも
巨額のボーナスを得ようとする)恥知らずが育つことになる。
一方、プロスポーツ選手には、そうした経済戦争とは一線を画す
大らかさが感じられるが、構造的には同じである。
最高峰に立つ選手たちは、持てる才能を極限まで高め、闘いに
勝利することで富と名声を得る。
が、その活動の全体は容易に経済戦争にも重ねられられるため、
恥知らずたち(や、その立場を目指す者たち)の行動を美化する
働きもしてしまう。
というか、行動モデルにすらなるのだ。
アスリートの言動が、ビジネス雑誌で取り上げられる所以。
スポーツへの批判はとかく煙たがられるものだが、スポーツは
魅力的であるからこそ危険なのだと思う。

勝敗の彼岸-2

以前、鈴木大地がテレビで金メダルを取った時の話をしていた。
タイム的には到底トップに立てる可能性のなかった鈴木は、
バサロの距離を伸ばすことによって周囲を混乱させ、金メダルを
獲得した。
つまり、あれは戦略的な勝利だったのだ、と。
だが、それって嬉しいことだろうか?
鈴木個人が金メダルを手にして喜んでも、その大会全体が
「あぁ〜、あの年って凡庸なタイムだったんだよね」と言われ、
忘れ去られていくのは悲しいことではないだろうか?
「俺はベストで戦ったけど、世界は大きかった」と噛み締める。
その方がずっと清々しい。
自分を高めるのではなく、相手を貶めることで勝とうとする
思考は、いかにも戦争的であり、総体を不幸にしてしまう。
内田樹さんは、それこそ、偏差値評価が全体のポテンシャルを
下げていく理由だと、喝破されている。
自分が賢くならなくても、隣の人が馬鹿だったら受験戦争には
勝てるわけで、そうした場合人間はよりたやすい方を選ぶ、と。
つまり、互いに足を引っぱりあうわけで、そうなれば当然全体の
レベルは下がっていく。
互いに高めあう気概は無くなり、成熟できない子供(→大人)が
増えるわけである。
いずれにせよ、全体の発展や幸福を願うことなく、恥も外聞
かなぐり捨てて「勝ち」にこだわるのは、子供の所行である。
アンリのハンドなども、そうした例だと思う。
今回のワールドカップでフランスが優勝しても(いや、優勝
すればなおさら)そのことは指摘され続けるだろう。
良識あるフランス人の恥ずかしさを思うと、心が痛む。
スポーツが全面的に間違っているとも思わないが、悪しき
傾向を育みやすい行いだという気がする次第。
おもしろいことは、勝ち負けとは別の場所にあるように思う。
ただ、勝とうとしなければ見えてこない地平もあるんだよなぁ。

勝敗の彼岸

勝ち負けに興味が無くなってきている。
というか、勝ち負けを設定することに興味が無くなって
きている。
ならば、カードゲームはどうなのか?
う〜む、そう言われれば、そうである。
もう少し細かく定義すべきだろう。
生死をかけるような勝負ごとには、興味が無くなって
きている、と。
うむ。
それなら言わんとしていることの意味に近い。
何故なら、そういう勝負に勝っても、社会的な意味での
生存可能性は必ずしも高められるわけではないから。
限定的なフィールドでの勝利による名誉や収入は、
必ずしも人生全体の幸福には直結しない。
場合によっては、生きることのバランスを崩し、破滅に
近づくことすらある。
昨今の例で言えば、タイガー・ウッズのスキャンダルも
それに当たるだろう。
何より、極度の緊張感を強いる勝負ごとは、それ自体の
中に周囲への配慮を失わせる盲目性を萌芽させてしまう。
昔から、それが苦手なのである。
だから、スポーツは見ていてあまり楽しくない。
本当は、勝ち負けなんて決めなくても、人間の共同体は
維持しうるのではないだろうか?
いや、むしろ無い方が幸せなのではないだろうか?
とすれば、スポーツという娯楽の総体が生み出している
ものは、けっこうまずいものなのかも知れない。
というわけで、この話は明日に続く。

読み手の時間

会社でおつきあいのある方々に年賀状を書いた。
「本年もよろしくお願い申し上げます」と。
しかし、あらためて考えてみると、書いている現在から
すれば、よろしくお願いしたいのは「来年」のこと。
それを「本年」と書くのは、相手がそれを読むのが来年に
なってからだと、ハッキリしているから。
当たり前と言えば当たり前だが、そんなことは年に1回、
年賀状にだけ発生することのように思う。
というのも、他の場合だと混乱が起きやすいから、
わざわざ読む段階に起点をおくことはしない。
たとえば、夜メールを書く際に、相手がそれを読むのは
たぶん明日になってからだと思っても、それを考慮して
時間をずらすとかえって分かりにくくなる。
その文脈で「明日、打ち合わせましょう」と書かれると
書き手にとっての明日なのか、読み手にとっての明日
なのか、混乱してしまう。
というわけで、年賀状の書き方はけっこう特殊なことの
ように思われるのだが、もしかしたら何かを見落として
いるかも知れない。
すぐには思い浮かばないが、読み手の時間にあわせて
書かれる文章。
年賀状以外に、そういうものがあるだろうか…?

無限忘却

半年くらい前に見当たらなくなっていた、小さな金尺が
出てきた。
しまってあったはずの箱の下に置いてあった箱の中から。
けっこう丹念に探したつもりだったのだが、見落として
しまっていたらしい。
灯台もと暗し、である。
そもそも、ものがきちんと並んでいることが好きな性分
なので、道具を無くすことはほとんどない。
その意味では、それが見当たらなくなったこと自体、
ちょっとしたショックだった。
一方、高価ではない反面、無くてもさほど困るものでは
なかったため、再購入は見合わせていた。
結果、その判断は正しかったことになる。
意外にそういうケースは珍しいことかも知れない。
何かが無くなれば、仕方なく別のものを購入し、後から
出てきてダブる、と。
ありがちなのは、そのパターン。
確か、はさみの時はそうだった。
おっと、他にも無くしてるではないか>俺
忘れた経験自体を忘れてしまうということ。
わたしたちは、そうやっていろんなことを忘れていくの
だろう。

インドとチトン

楽しみにしていた、『チャンドニー・チョーク・トゥー・
チャイナ』は残念ながら今ひとつ。
がっくりするほどではなかったが、インド映画独特の
淫靡さが無くて残念。
ハリウッドで作った分だけ、脱色された感じだった。
いずれにせよ、期待が大き過ぎたか…。
一方、大きな期待を持って見ても、それ以上に楽しませて
くれるのが、『伊集院光のでぃーぶいでぃー』である。
まずは「アクトレスが泣くのです!選手権の巻」を見たが、
見事におもしろかった。
わざわざ笑ってしまうシチューションを作り、その流れの
中でどれだけ涙を流せるかを、女優同士で競う大会。
優勝しても、賞品・賞金は無く、ただ「偉い!」と言って
もらえるだけという、大変ストイックかつ低予算な企画
である。
いいなぁ〜、そういうの。
また、笑わせる仕掛けが何ともおばかで素晴らしい。
これまたネタばれになるのであまり詳しく書かない方が
良いと思うが、ちょっとしたイタズラがずらり。
作ってても楽しいだろうなぁ。
そんな風に思わせること自体が凄い。
やはり、恥豚様リスペクトである。
ちなみに、ご存知ない方もいらっしゃると思うので付記
しておくと、「恥豚」というのは伊集院光が自分のことを
呼ぶ時に使うあだ名。
そういう自虐性がまた心憎いのである。