つらい納得

今日は、とても嫌なことがあった。
というか、とても嫌な人間に接した。
で、このところ何日かつづってきたことの要点が、
別の角度からよく分かった次第。
そういう意味では、その嫌な人間に感謝をすべき
なのかも知れない。
いや、もちろん「感謝」の部分に関しては、半分
以上皮肉ではあるのだが…。
ともあれ、簡単に言うと、一人の人間が素晴らしく
なっても、一個の会社が素晴らしくなっても、
それにはじかれた人が腐っていくのだとしたら
(=人をおとしめて喜ぶ人間になってしまうのだと
したら)社会の総体は全然良くならない、ってこと。
それに、あらためて気づかされたのである。
それは大変難しい問題だと思う。
良い集団を造ろうとする意志は、崇高なものである。
かつ、そこにテクニカルな工夫が入るとしたら、
それこそ人間の英知の結集的な作業と言える。
が、そこに至る過程の中で、「ふるい」を設けて
しまうと(実際には設けざるを得ないのだが)、
落とされた者の中には怨恨の感情が生まれやすい。
しかも、その怨恨たるや、造られた集団の崇高性を
無に帰すほどのマイナス因となる。
つまり、ほぼ日やカヤックが楽しそうであれば
あるほど、そこからはじかれた人の腐り具合が
気になるのである。
それは、ほぼ日やカヤックに対する批判なのでは
断じてない。
ただ、良き思いになじめなかった人が、いかに
「諦め切れない人/失礼な人」になってしまうかの
酷さを、本日あらためて知らされた次第である。

野暮な良さ

カヤックとほぼ日の共通点というか、美点について考えて
みたい。
どちらの会社も、働いている人が楽しそうに見えるのだが、
これはかなり意図的なものに思える。
「楽しく見せている」ということではなく「楽しく働こう
としている」という意味で。
で、それって意外に難しいのである。
いくつか難しい理由はあるのだが、際たるものの一つは
「世の中には、仕事をつらいものだと思っている人が多い」
ってこと。
逆に言えば、そう思う人にとっては、つらくないことは
仕事としてのリアリティが薄かったりする。
で、別段それは悪いことでもない。
いや、むしろ真面目な社会を支えているのは、そうした
つらくても頑張る人たちである。
ただ、ネガティブなイメージは溌溂としたエネルギーを
分散させる。
カヤックやほぼ日が丁寧に取り除いているのは、そうした
負の因子なのではないだろうか。
そのことに対して自覚的であり、かつ工夫をしている
あたりに、新しい時代性が感じられる次第。
ただ、一昨日書いたように、わたしはあまりに良過ぎる
ものに対しても落ち着かないのである。
どのあたりがまずいのか?
敢えて言えば「人間の社会ってのは、そんなもんだよな」
という諦念。
「諦める」という潔さである。
九鬼周造は、いきの構成要素を「媚態」と「意気地」と
「諦め」だと指摘した。
つまり、カヤックとほぼ日の素晴らしさは、けして悪い
意味ではないのだが、ちょっと野暮ったいのである。

豪華な一日

朝一番で、3ヶ月に一度のお風呂の大掃除。
浴槽前のスカートをはずし、浴槽の下を掃除した。
以前は半年に1回だったが、もう少し頻度を上げた方が
良いと思い、3ヶ月に一度にしてからは1回あたりの
掃除が楽になった。
その後、雑用を2、3片付けてから外出する。
明治大学で行われる、ティエリ・グルンステンさんの
講演を聞くためである。
グルンステンさんの話にも興味があったが、その前段
として、荒俣宏×高山宏というビックな対談があり、
個人的にはそっちが聞きたくて足を運んだ次第。
だったが、グルンステンさんの明晰な知性にも、
すっかり魅了されてしまった。
加えて、高山宏さんの締めの話は、わずか2m位の
至近距離で聞けて、トロ〜ンとなる。
左に仙台の南くん、右に夏目房之介さんという、
知性のトライアングル状態。
大変素晴らしい時間だった。
その後、市川に移動し、毎年恒例の小沼さん宅での
クリスマス・パーティー
お洒落でおいしい料理をたくさんいただき、これまた
楽しい時間を過ごした。
いい気分で酔っぱらい、帰宅。
充実の一日でした。

清濁の中庸

友人の中には、わたしのことを下ネタ嫌いだと思っている
人もいるはずだが、それは大きな誤り。
どちかと言えば、わたしの笑いのツボはそっちにある。
そうでなければ、伊集院光トークで呵々とするはずもない。
ただ、わたしは下ネタを言う人の、ある種のメンタリティが
苦手なのである。
それは、「なんだかんだ言っても、人間の根っこってのは
スケベなんだよな。へへへ…」という感じ。
まぁ、間違っているわけでもないのだが、それはやっぱり
ものごとの半面でしかないと思う次第。
性欲を抑え難いことがあるように、どうしようもなく理想を
かかげてしまうことが人間にはある。
負けると分かっていても戦わなければならないときがある
ように(bu ハーロック)。
だから、下ネタの逆で、上品過ぎるものにも馴染み切れない。
上もいいし、下もいい。
あるいは、上もダメだし、下もダメ。
畢竟、良く言えば両義的だし、悪く言えば蝙蝠的になって
しまうのである。
何故そんなことを考えたかと言うと、本日調べものをしていて
カヤックという会社のホームページを見たから。
社名自体はけっこう前から知っていたのだが、じっくり見た
のは初めてで、感想としては「素晴らしい!」と思った。
ほぼ日刊イトイ新聞もそうだが、働いている人の喜々とした
姿をインターネットで流せるというのが、0年代(というか、
21世紀)的な会社としての、まずは理想的な在り方なのかも
知れない。
が、上記したように、わたしは大変に天の邪鬼なので、
それが理想的であればあるほど、そうではない方への興味も
膨らむ次第。
所謂、ブラック会社が当たり前にあるのも「今」だよね、と。
2chを含めての、日本のインターネット文化だし。
そういう意味では、今いる会社(ビーワークス)は、非常に
バランスが取れている。
上品の方へも下品の方へも、振り幅が大きいわけではないが、
結果的に清濁の中庸的なインターフェイスになっていることは、
わたしに合っているのかも知れない。
カヤックとほぼ日の共通点については、いずれまた。

お風呂礼讃

今日は一段と寒かった。
朝起きた時も冷えたが、会社からの帰り道が特に。
風に吹かれると、軽く震える感じだった。
そんな日には、お風呂に入れるだけで幸せだったりする。
わたしは別段長風呂ではない、どころかかなりカラスの
行水なのだが、それはそれとしてお風呂は好き。
休みの日にスーパー銭湯に行くのも、嫌いであったら
習慣化するはずはない。
ところで、世界的に見ると、日本のお風呂というのは
かなり贅沢な部類に入るものではないだろうか。
何も特別な温泉である必要はなく、綺麗な水を温めて
それに身体全体をひたせるというだけで。
まずは水の豊富な場所でなければ論外な行為だし、
その水を暖めるためには燃料もいる。
寒過ぎる場所では湧かした温度を維持するのが大変だし、
暑過ぎる場所ではありがたみが薄い。
敢えて言えば「お風呂というものを楽しめる」国という
のが、日本のアイデンティティだと言ってもよい
(というのは、流石にいい過ぎか…)。
ともあれ、冬のお風呂、春のうたた寝、夏のビール。
このあたりは、日本の気候に根ざした楽しみのような
気がする。

先送りされる予定

妻と息子たちはディズニーランドへ。
6時過ぎだったと思うが、準備をする物音がしていた。
わたしはまどろみの中。
昨晩、いい感じでマッコリを飲んだので、いつもより
寝坊をしてしまい、起き上がったのは9時前だった。
当然、家の中はひっそり。
ともあれ、天気が良くて何よりだった。
一方、わたしは一日中家にこもって年賀状書き。
本当は先々週あたりに片をつけるつもりだったのだが、
いつになく手間取ってしまった。
しかし、先々の予定を考えると、今日がリミット。
妻が作っておいてくれたおでんを、朝・昼・晩と食べ
ながら、せっせと制作にいそしんだ。
夕方、時間ができればスーパー銭湯に行こうと思って
いたのだが、はかどりが悪く、それも見送り。
結果、今日の外出はコンビニにガムを買いに行った
だけだった。
ともあれ、ようやく先程(22時)切りがついた。
まぁ、一日で済んだのだから、良かったのかも。
あとは、お風呂の掃除かな。
それこそ、今日やるつもりだったのだが、玉突きで
先送りされた次第。
今年もあと10日ほどである。

海賊の時代

ケーブルテレビで『パイレーツ・オブ・カリビアン
ワールド・エンド』をやっていたので見た。
が、何だかなぁ〜。
よく分かりませんでした。
話の流れも複雑過ぎる感じだったし、そもそも全然
ワクワクしなかったし…。
でも、興業成績はすこぶる良かったのね。
不思議な感じである。
そう言えば、『ワンピース』の映画も凄い人気らしい。
0巻も増刷されるようだし。
「海賊」という存在が、ある種のシンパシーを呼んで
いるのだろうか?
確かに、今は「正義のヒーロー」という時代ではない
感じもする。
海賊は、ルールにしばられない奔放さを持っていて、
責任の重さからもフリーだし。
一方、現実には、ソマリア沖の海賊問題もあるわけ
だから、イメージ的には複雑である。
歴史的に見ても、イギリスの海賊なんていうのは、
怪しい話がゴロゴロしている。
Wikipediaで「イギリス 海賊」と入力すると、
主だった海賊たちの話がいろいろと出てきます。