野暮な良さ

カヤックとほぼ日の共通点というか、美点について考えて
みたい。
どちらの会社も、働いている人が楽しそうに見えるのだが、
これはかなり意図的なものに思える。
「楽しく見せている」ということではなく「楽しく働こう
としている」という意味で。
で、それって意外に難しいのである。
いくつか難しい理由はあるのだが、際たるものの一つは
「世の中には、仕事をつらいものだと思っている人が多い」
ってこと。
逆に言えば、そう思う人にとっては、つらくないことは
仕事としてのリアリティが薄かったりする。
で、別段それは悪いことでもない。
いや、むしろ真面目な社会を支えているのは、そうした
つらくても頑張る人たちである。
ただ、ネガティブなイメージは溌溂としたエネルギーを
分散させる。
カヤックやほぼ日が丁寧に取り除いているのは、そうした
負の因子なのではないだろうか。
そのことに対して自覚的であり、かつ工夫をしている
あたりに、新しい時代性が感じられる次第。
ただ、一昨日書いたように、わたしはあまりに良過ぎる
ものに対しても落ち着かないのである。
どのあたりがまずいのか?
敢えて言えば「人間の社会ってのは、そんなもんだよな」
という諦念。
「諦める」という潔さである。
九鬼周造は、いきの構成要素を「媚態」と「意気地」と
「諦め」だと指摘した。
つまり、カヤックとほぼ日の素晴らしさは、けして悪い
意味ではないのだが、ちょっと野暮ったいのである。