つらい納得

今日は、とても嫌なことがあった。
というか、とても嫌な人間に接した。
で、このところ何日かつづってきたことの要点が、
別の角度からよく分かった次第。
そういう意味では、その嫌な人間に感謝をすべき
なのかも知れない。
いや、もちろん「感謝」の部分に関しては、半分
以上皮肉ではあるのだが…。
ともあれ、簡単に言うと、一人の人間が素晴らしく
なっても、一個の会社が素晴らしくなっても、
それにはじかれた人が腐っていくのだとしたら
(=人をおとしめて喜ぶ人間になってしまうのだと
したら)社会の総体は全然良くならない、ってこと。
それに、あらためて気づかされたのである。
それは大変難しい問題だと思う。
良い集団を造ろうとする意志は、崇高なものである。
かつ、そこにテクニカルな工夫が入るとしたら、
それこそ人間の英知の結集的な作業と言える。
が、そこに至る過程の中で、「ふるい」を設けて
しまうと(実際には設けざるを得ないのだが)、
落とされた者の中には怨恨の感情が生まれやすい。
しかも、その怨恨たるや、造られた集団の崇高性を
無に帰すほどのマイナス因となる。
つまり、ほぼ日やカヤックが楽しそうであれば
あるほど、そこからはじかれた人の腐り具合が
気になるのである。
それは、ほぼ日やカヤックに対する批判なのでは
断じてない。
ただ、良き思いになじめなかった人が、いかに
「諦め切れない人/失礼な人」になってしまうかの
酷さを、本日あらためて知らされた次第である。