このところ、興味の大半がカードゲームにシフトしている。
きっかけが「活字」というシステムが持つ意味だったことは
前にも書いたが、そこのところをもう少し掘り下げて。
高山学派の諸子には言うまでもないことだが、分かることは
分けることに通じ、「殺す」ことを意味する。
「分」も「解」も、刀で牛をばらすことから生まれた文字で
あり、知ることにはある種の痛ましさがつきまとう。
一方、解体された要素を編むこと、組み合わせることには
再生の力がある…、という風にずっと考えていた(考えよう
としきた)わけだが、実はどうもスッキリしていなかった。
一つには、そうして編まれた本という物質が、やすやすと
権力装置に回収されてしまうこと。
今一つは、「結ぶ」というメタファーを喜ばしいことと捉え
つつも、「結ぼれ」という言葉が憂鬱を意味すること。
それらの問題が、どうにも胸につかえていた。
自分なりにつじつまを合わせようと思い、一時は「結ぶ」に
せよ「解く」にせよ、その運動性の中に再生の契機があると
考えてみた。
が、結果として作り上げられる本は、一つめの懐疑点として
上げたように、簡単にコレクションの対象になってしまう。
そこにどうしても、死の匂いを感じてしまうのである。
いや、死が悪いわけではない。
ただ、それを志向することに抵抗を感じてしまう次第。
もっと言えば、本当に死を志向しているのではなく、生き
ようとして逆に死に向かってしまう点が切ないのだろう。
で、一旦組み合わせながらも、もう一度「動かせる」状態に
できるシステム「活字(生きている文字)」のメタファーが
響いたわけである。
畢竟、動くということを持って「生きる」とする、と。
そのあたりのイメージは、『トイ・ストーリー2』が端的に
示してくれているように思う。