シュルレアリスムは、数ある前衛の中で最も皮肉な顛末をたどった
運動と言えるかも知れない。
その眼目は、人間のさかしらな知(傲慢・不遜な理性主義)を笑う
ことにあったが、最終的にそのエッセンスは、広告の一技法として
消費経済の側にあっさりと回収されてしまったからである。
ルネサンス以来の線遠近法的な知は、最初にEND(終点/目標)を
設定して、ことを起こす。
われわれは現在当たり前のようにその発想法を使うし、教育的には
むしろ奨励される態度である。
「まずは、明確な目的を持って!」と。
しかし、終わりが決まっているというのは、考えようによっては
気の滅入る話でもある。
ENDLESS(終わりのない循環)が生の本来的な姿であるのに対し、
近代的なENDは死を意味するから。
線遠近法の始祖たるレオナルド・ダ・ヴィンチが、陰鬱な終末感に
とりつかれていたことは偶然ではないだろう。
さらに言えば、消費経済は消し費やすことをもって活性と称するが、
その際たるものは戦争である。
シュルは、第一次世界大戦に対するアンチテーゼとして起こった、
生きることへの賛歌ともみなせる。
人間の生がそうであるような、予測の不能性を求めた運動。
シュルレアリストは、偶然や無意識を制作に取り入れることで
近代的なヴィジョンを換骨奪胎しようとした。
当然、彼らの作品は、奇妙で不思議なものになった。
が、皮肉なことに、そうした奇妙さは消費活動を加速させる広告
表現にこそ向いていたのである。
「何だかよくわからないけど、おもしろい」「意味はないけれど、
気にかかる」……。
シュルレアリスムの方法論は、20世紀の広告・消費を豊かにする
形で歴史に着地した。
意義申し立てを骨抜きにするのは、反論ではなく許容なのである。