「個性」のイメージ

今日は、出社途中の通勤電車の中で、「個性」というものに
ついて考えてみた。
われわれが若かりし頃、つまり20世紀の後半においては、
個性のイメージはずいぶんハードなものだった。
分析的な知の在り方そのままに、「あなたとわたしは違う」
という細分化の果てにある固まりが個性に思えていた。
意固地と言ってもいいし、防壁に例えてもいい。
ともかく、何だかマッスのあるものだった。
そうこうする内に、時代の振り子は大きく逆に振れ、
個性は何だか小さな結晶のようなものとして語られるように
なっていった。
「個性なんて無理に出そうと思わなくてもいいんだよ。
 一見違うことをやっているようでも、そこには自分にしか
 出せない共通の味のようなものがある。
 それが個性だ」
なんて具合に。
また、ずいぶん譲ったものである。
固過ぎるのもつらいが、あまりゆるいのもリアリティが薄い。
個人の痛みは、どこまで行ってもその人のものなわけだし。
というわけで、ただ今現在のわたしのイメージは、その中庸
あたりに落ち着いている。
「伝達の必要がない範囲が個性である」って感じかな。
何かを思ったり考えたりして、それが他の人に即時的に共有
されない(つまり伝達が必要)ならば、それがその人の個性
である、と。
一方、何らかの事象に同じ反応を示す人がいれば、それは
共同体としての個性であり、その場合は一人の人間としての
個性はあまり重要ではなくなる。
法人の個性なんてのも、これに当たる。
それはまるで、粘土のようなイメージ。
輪郭をハッキリと持ちつつも、大きくなったり小さくなったり
くっついたり離れたりする感じである。