勝っても意味がない、という話

個人が作る核シェルターは、わたしが最もくだらないものと
思うモノの一つである。
こんなものたち。
それは、何百万あるいは何千万円ものお金をかけて作られる、
情けない思考の結晶だから。
ひとまず核爆発を避けられたとして、焦土と化した地表に再び
出てきて、彼らは一体何をするつもりなのだろう?
何故それほどの大金を「核戦争を起こさない」ことにではなく
「核戦争を起こす(=起きなければ無駄になる)」ことに使う
のだろう?
畢竟、他者を押し倒しても自分だけが勝てばいいという思考が
行きつくのはそんなところである。

アメリカという国の悲劇は、そのレトリックに似ている。
ボタンの掛け違いは、第一次・第二次世界大戦に大勝したこと
から始まったのだと思う。
世界中の多くの国が、その時点で軍需産業を社会システムから
外すか縮小したのに対し、アメリカはその成長を原動力として
発展した。
結果、膨大に溜まっていく兵器を使わなければならず、朝鮮、
ベトナムイラクと、戦争のための戦争をくり返した。
中でもイラク戦争の始め方はひどかった。
何故、ブッシュやブレア、そして小泉がイラク戦争に関する
責任を問われないのか、わたしにはよく分からない。
このところ、言説がアメリカに対して批判的になりがちだが、
わたしが嫌いなのは、つまるところその人たちである。

いずれにせよ論点は、一極集中システムの方が生存可能性が
高いのか、利益を分配するシステムの方が高いのか、という
ことにある。
倫理や感情の問題ではない。
誤解を恐れずに言えば、勝った者の方が本当に生存可能性が
高まるのであれば、一極集中システムにも意味はある。
少なくとも、そうしたい欲望は理解できる。
が、エスカレートし過ぎたそのシステムは、もはや破綻して
しまった。
それが機能できたのは、20世紀的経済の範囲内までだった。
アメリカの所得格差は500倍にまで広がったと言われるが、
果たして勝者が生き続けられる可能性は500倍高いだろうか?
百歩譲って500倍高いとしても、まわりの人や国が倒れた
後の光景は、核シェルターのまわりに広がる荒廃した大地と
同じである。
相手を倒すことは、必ずしも自分の延命にはつながらない。
それがイコールでないことに気付かなければ、誰も生き残れ
ない世界になってしまう。
人類の経済は、そういう領域に来てしまっていると思う。