『破』のこと

実は昨晩、レイトショーで『ヱヴァンゲリヲン・破』を見た。
もはや映画館に足を運ぶ習慣がすっかり無くなっていたのだが、
DVDで『序』を見た時に「これは大きい画面で見た方がいいん
だろうな」と思ったのと、『破』に対する悪い評判をほとんど
聞かないので。
なるほど、内容も練り直され、画像もほぼ全編描き直されていて、
見せ場も一杯。
要するに、クオリティの高いエンターテインメントだった。
一方、TV版ではひたすら人間関係の希薄さが強調されていたが、
今回の映画では登場人物同士に歩み寄りがある。
あぁ〜、この作品はどこまでもサービスするなぁ〜。
90年代には、その時代の殺伐とした空気を汲み取ったのに対し、
現在は世の中全体が「協調」を求めつつあり、そのあたりを実に
巧みに取り入れていた。
感心しきりである。
ただし、だからこそ、その弱点もまた気になった。
碇ゲンドウが息子シンジに「もっと大人になれ」というシーンが
その象徴である。
おいおい、碇ゲンドウもいい加減子供だろうに、と鼻白む。
人道的な判断をすることができず、不機嫌な態度によって組織の
ポテンシャルを下げる人間を「大人」とは呼ばない。
つまり、ヱヴァンゲリヲンには「大人=そうなりたいと思える
登場人物」がいないのだ。
ガンダムにせよ、グレンラガンにせよ、「あんな風になりたい」
というキャラクターが出てきた。
ヱヴァンゲリヲンにはそうした人物がいないのだが、それは
作品自体に理想が込められていないからではないだろうか?
LOWSONやらUCCやら、タイアップ企業のロゴが何の臆面も
なく全面に出せることも、そのことに重なる。
そういうあざとさだけを、「大人」だと思っているのでは
ないだろうか。だから大人が嫌いなんじゃないか、と。
「クオリティーは?」と聞かれれば「凄い」し、「好きか?」
と聞かれれば「好きだ」と言えるのだが、「いい作品か?」と
聞かれると、「あんまり…」と口ごもってしまう。
残念ながら、ヱヴァの感性は新世紀ではなく、やはり前世紀
(20世紀)末。その時点で夢見た新世紀のような気がした。
それはそうと、映画を見た川崎チネチッタは、座席がやや狭い
ながら、奇麗で良かった。
人があまりいないレイトショーだと、なおさら快適。
今後は気になる映画があれば、このパターンかも。