このところ、カードというものに強い興味が出てきている。
それが「活字」というシステムに触発されたことは少し前に書いたが、
もう一つ大きなきっかけになったのは、富野由悠季のインタビュー
だった。
曰く、「そこでもう1つ重要なモーメントは、他人のコピーになって
しまうかどうかは、その人が本性的にもってる指向性や方向性に合致
しているかしていないかです。11、12歳ぐらいまでにあなたが好き
だったものにこだわれ、ということです。」と。
が、わたしは小さい頃、実はカードというシステムがけして好きでは
なかった。
いや、もう少し丁寧に言うと、カードという「モノ」に対しては
大きな魅力を感じつつ、資本の力と結びつきやすい性質をつまらなく
思っていたのである。
その場合の象徴は、仮面ライダーカードだった。
当該カードが登場する以前の子供たちの遊び方は、もっぱら記憶と
愛情に頼っていた。
ごっこで動きをまね、主題歌を覚え、細部が描けるほどその姿を目に
焼きつけた。
ビデオも写メもない時代、頼るはおのが脳髄(という身体の一部)で
あり、要するに記憶力だった。
それが、仮面ライダーカードという記録システムの登場によって、
「お金さえあれば所有できる」という、ずいぶんと野暮な愛情表現に
成り下がってしまった。
もちろん、ごっこでいじめられたり、歌が覚えられなかったり、
絵が下手だったり、と。
そういう子供たちも、たくさんいたはずである。
それまでの遊び方は、あまりに能力偏重だったかも知れない。
が、ヒエラルキーを持つカード・システムは、すぐに現実の資本体系
と結びついてしまう。
記録のクールさは、記憶の熱さを凍てつかせる(=白けさせる)。
昨今のトレーディング・カードでも、起きる現象は同じである。
一方、お正月に集まった親戚で行う百人一首は、とても楽しい遊び
だった。
全体性を持っているカード・ゲームの一式は、集まることの楽しさに
リンクするのだろうか?
その在り方は、「一隅楽しまざれば万座憂れう」という、わたしの
好きな文言にも、そのまま見合ってくれるのである。
かるたやトランプは、どのカードが一枚欠けてもおもしろくない。
少々硬い言葉で言わせてもらうと、「断片性に陥り易いカードという
システムを、全体性の側に取り戻す」こと。
それが、わたしが最近見つけたテーマなのである。