花見考

昨晩、つぼみがほころび始めていると書いたが、
今朝はすでに「咲いている」といっても良い感じに
なっている、桜。
何だか、気持ちが浮かれてくるから不思議である。
ルネサンス以前の世界では、命は「めぐる」ことを
もって良しとされた。
冬の寒さで一旦死んだようになる植物や動物も、
春の訪れと共に再び活気をとりもどす。
その循環と再生を喜んだのである。
人の生にしても、次世代にわたすことを潔しとした。
そういう世界では、変わったことは崩壊の予兆と
され、進歩はむしろ忌み嫌われた。
現代、われわれは好むと好まざるとにかかわらず、
生きるために変化することを求められる。
消費経済は、「消し、費やす」こと。つまり、再び
めぐることのない終焉を目指す活動だからである。
しかも、この不況。
花見などをやっている場合ではないではないのかも
知れない。
が、一方で、こんな時だからこそ花見で浮かれたい
とも思える。
再生の喜び…などと大上段に構えずとも、毎年同じ
ように楽しいことがめぐってくるのは、やはり良い
ことだと思えるから。
そういうパラダイム・シフトの時代に入りつつある
気もするのである。