大げさな反動

身近なことで感情的になっていると、その反動で一気に彼方に
飛びたくなる。
今夜はそんな話。
わたしは1965年の生まれなので、そのデケイド(10年)を体感
できたわけではないが、ここ100年で最も知的に熱かった季節は
1960年代だと、よく言われる。
以降、深化したジャンルはあるものの、総体的には知的緊張感は
薄れる一途である。
一体、そのあたりで何が変わったのだろうか?
私的には、「射程が決まってしまった」ことが原因ではないか、
と思う。
時間的にも、空間的にも、限界が実感されてしまったのだ。
時間という意味では、消費活動の行く末が見えてしまったこと。
近代世界の中で経済活動を止めることは容易ではないが、逆に
人々の感覚の根底には「消費を続ければ資源は無くなる」という
(しごく真っ当な)認識も横たわっている。
そのため、以降の消費活動には、必ず罪悪感がともなうことに
なった。
つまり、「永遠」というイメージが消えてしまったのである。
一方、空間的な意味では1969年のアポロ11号による月面着陸が
象徴的だった。
それは、「人間は月まで行けるようになった」ことを示すと共に
「どうやら、行けても月までだ」という失望を刻みこんだ。
そうして「無限」のイメージも消えていったのである。
以降、人類は「何十年かは持つであろう地球」というイメージに
引きこもってしまった。
ポストモダンはモダンの変奏曲でしかなかったが、あらためて
「大いなる円環」や「宇宙の果て」といったヴィジョンが必要
なのではないだろうか。