陰謀史観について

海野弘著『陰謀と幻想の大アジア』を読みはじめる。
いきなり満州の話である。
年末年始に読んだ『ねじまき鳥クロニクル』が少し頭をよぎるが、
それ以上の飛躍はない。
あまり馴染みのない方面である。
その昔、『天皇の陰謀』を読んだくらいだろうか?
思えば、そこにも「陰謀」の文字が踊っていた。
とかく陰謀史観というのはうさん臭くみられがちで、また実際
うさん臭いものが多いのだが、それは列記とした知的態度とも
言える。
要約すれば、「意志の面から歴史を考える」ということである。
歴史は本来、ひとりの人間や小さなグループが操作できる類いの
ものではない。
それは多くの不安定な要素の重なりによって形成される。
しかし一方で、誰もが大なり小なりの意志をもって動いている
こともまた事実。
つまり陰謀史観とは、そちらの側から歴史を考えてみようという
アプローチである。
ほとんどの人がはずすからと言って、宝くじを買う人全員が
当たらないと思っているわけではない。
「当てたい」と思う人の意志は、くじ運自体には作用しないが、
くじに当たるためには、まずそれを購入する必要がある。
確実性は薄いにせよ、それは意志を抱いた結果なのである。
問題は、隠すこと、隠されること、隠されていると思うこと。
つまりは、証拠の顕在化が焦点になるのだが、何しろ「意志」
ってのはもともと目に見えるものじゃないからねぇ。
どうしたって、うさん臭くなりやすいわけである。