駄洒落礼讃

お父さんの駄洒落は評判が悪いのであります。
家庭では無視され、職場では軽く聞き流される。
「なるべく相手にしない方がいい」という空気がただようんですが、
それでもお父さんはついつい駄洒落を言ってしまうのであります。
と、昨日の続きで小沢昭一調。
ケロロ軍曹ではない。
で、そもそも駄洒落とは何か? 学魔・高山宏さん風に言えば
「言の葉の貧しさをつく営み」ということになるだろう。
すべての単語が、ハッキリ異なっていれば、駄洒落の生まれる余地は
(原理的には)ない。
が、実際には同じような言葉が山ほどあるわけだし、言語の中には
同音異義語なんていう駄洒落の温床のようなものすら存在する。
カッコ良くお父さんを擁護するならば「駄洒落とは、言語システムの
不備を指摘する営為である」と言えるのだ。
そして、その意欲は「違っている」ことよりも「似ている」ことを
喜ぶ感性に根ざしている。
つまり、友好的なのである。
つきあいの少ない中では、人はお互いに似ているところを見つけよう
とする。リンクする、あるいはシンクロする回路を探るわけだ。
その言語版が駄洒落である。
以前、差異(=わたしはこんなに凄いでしょ、という自慢)によって
関係を築こうとする人を見たことがあるが、それはあまりに痛々しい
勘違いだった。
福田元首相が、「わたしはあなたとは違うんです」という言葉を、
退任会見という場で使ったのは、誠に象徴的である。
まぁ、あれにはいろいろと背景があるようだが、関係を切ろうとした
ことに変わりはない。
いずれにせよ、違いの強調が関係性に溝をうがつのに対し、似ている
ことの祝福は言葉と言葉に、あるいは人と人の間に橋をかけていく。
駄洒落自体が世界を救うわけではないが、駄洒落的感性が浸透する
ならば、世界はもう少しヘニャッと住みやすくなる気がするのである。
理知によって分けよう(分かろう)とすれば、畢竟刀を振りまわす
ことになるのだから。