大人への憧れ

平川克美さんがご自身のブログに、身の引き締まる話を書かれて
いる。
昨今の経済危機や企業犯罪、秋葉原事件について、誰かの責任を
問うのではなく
「俺(や、あなた)がどこまでそれらの事件に加担しているのか
 ということを見つめなおす必要がある」と。
つまり、事態の責任を引き受ける話である。
率直に言えば、わたしはそういう態度を取れる大人に憧れたし、
40歳を過ぎてなお、その点では自分を幼いと感じる。
もう一段、背筋を伸ばさなければならない。
一方、以前にも書いたことがあるのだが、わたしは「大人買い
という言葉が苦手である。
その欲求はわかるし、行動自体を否定するつもりはない。
むしろ自分でもそうした買い物をしたこともあるし、かなえる
経済力があるならば、欲求の発露は自然とも言える。
ただ、わたしにとっての大人は「我慢ができる人」である。
買いたくても買わない人。
あるいは、自分が受けたバトンを次に渡せる人と言ってもいい。
つまり、いわゆる「大人買い」をするのは子供であって、その
形容矛盾に身がよじれてしまうのである。
畢竟、わたしたちの時代が育ててしまった子供大人の特徴とは、
衝動を抑えられないことなのかも知れない。
あるいは、恩義に対する感性が弱いとか。
それらは、知識や能力の高さにはあまりリンクしていない。
いや、むしろ知識や能力が高い人ほど、酷い表れ方をする。
たとえば、エリートが陥りがちな、もっとも醜悪な落とし穴は
獲得した成果を自分の力だけによったと勘違いする点である。
「勝つ」ことの盲点と言ってもいい。
医師国家試験に合格しても、それを自己目的の達成として流し、
医者にならない人がいる、と聞いたことがある。
それを教えてくれた人は
「一人の合格者を育てるために、国が5,000万円以上の税金を
 使っているのにですよ」
と、憤っていた。
が、平川さんに習うならば、そうした状態もまた、われわれが
生み出してしまった穢土(えど)の風景である。
その責任を引き受けて、生きていかねばならないのだろう。
実を言うと、プロフィールの写真を誰だかわかるものにして、
少し長目の文章で自分の考えを吐露するようになったのは、
そういう「大人」に少しでも近づきたいと思ったからである。
匿名性に守られるネットの中で、ある種の責任を引き受ける
ところから始めてみようか、と。
今年の目標は「目指せ! 大人」だぁ〜。
と、今決めた。