献辞と死

翻訳された本を読むと、たいてい中表紙の次に献辞が載っていて
小さい頃からこれが好きだった。
「○○に捧ぐ」と。
この「捧ぐ」って言葉の響きが、また良かった。
今でもけして容易なことではないが、かつて本を作るには大変な
資金が必要で、パトロンなしには到底かなわぬ夢だった。
原初の献辞は文字通り、そうしたパトロンに捧げられていた。
そのうちに出版の敷居は徐々に下がり、献辞は資金的援助よりも
もっぱら精神的援助をくれた人に向けられるようになった。
だからそれは、あたたかい感謝の言葉であるのだが、そこにも
わたしは「死」の気配を感じてしまう。
献花と言えば、もっぱら亡くなった人にむけてのたむけを指す。
また、感謝と言っても「捧げる」という言葉を普通に使えるのは
武田鉄矢くらいで、一般には照れくささがかなり強いはず。
やはり、死んだ人に対しての方がシックリくる。
本という物質に固まる時点で、思考が一種の死を迎えるとすれば、
献辞はそれとパラレルに存在しているのかも知れない。
ともあれ、少し長い文章を書くようになってから、ちょくちょく
死に関する発想が出てくるようになった。
これはいっかな不吉なことではなく、むしろ良い傾向だと思って
いる。
というのも、死が喧噪の中に隠されてしまうことこそ、近代の
宿痾だから。
少しづつ、メディーヴァル(中世的)に治癒してきているのかも
知れない、と。