賜り物と流用

ここ数年の中でもっとも感銘を受けた本に松宮秀治『ミュージアムの思想
がある。
ヴンダーカンマーから美術館・博物館が生まれてくるあたりの事情を精査した
前半も良かったが、制度としての美術館について考察した後半も興味深かった。
中でも「賜り物」に関する記述は、月並みな表現で恐縮だが、目からうろこが
落ちる思いがした。
時々そのことを思い出す。
賜り物というのは、かつて武士や豪商が将軍や藩主などから授かった品である。
わたしは従来、そのシステムが持つ意味をもっぱら封建的な身分制度の補強
とだけ捉えていたので、あまり好きではなかった。
で、確かにそういう面もあるのだが、松宮さんが指摘されていたおもしろい点は、
賜り物が完全に所有を移さないということだった。
現代では、とかく「もらったのだから自分のもの」となりがちなところ、
賜り物には元々の所有者が深く影を落とす。
つまり、「もらった」からと言って、自分の好き勝手にしないわけである。
その所有の二重化は確かに独特だった。
そう考えると、たとえば手紙に対する所有意識もちょっと変わる。
なるほど手紙はそれをもらった人のものだろうが、全体を作ったのは徹頭徹尾
それを書いた人である。だからこそ、著名人の手紙に価値も出るわけで、
何かの拍子にそれらは市場に流出したりする。
しかし、手紙が賜り物と同じように所有が二重化した物だとすれば、簡単に売り
買いされない方が良い。書いた人への敬意はいつまでも残って欲しいものである。
一方、唐沢俊一に関する盗作の指摘を読んでいると、そうした節度とあまりにも
かけ離れたところでものごとが動いていて、ちょっと悲しくなる。