共同生活の記憶

昨日の流れで、ブルックリンに暮らしていた頃の話を少し。
今から18年ほど前、26歳くらいの時の経験である。
工場だったビルの広いフロアを5人でシェアして暮らしていた。
心置きなく制作ができる部屋の広さと家賃の安さが魅力だが、
夜になると野犬がウロウロする、ちょっと怖い地区だった。
同居者は、日本人アーティストの斉藤さんと大家さん(女性)、
韓国系2世のフランクにアメリカ人のジョンの4人。
ジョンはちゃんとした建築家なので、そんな場所に住むような
人ではなかったが、離婚をして倹約する必要があったらしい。
物腰のやわらかい紳士だった。
一方、斉藤さんと大家さんの事情は似ていて、結婚はしている
もののお子さんがおらず、「悔いの残らない形で、アートに
打ち込んでみたい」との思いで渡米されていた。
フランクは、ほとんど何もない部屋の真ん中にベッドを置き、
まわりに蚊帳を張って暮らす、ちょっとした変わり者。
昔はバーテンダーとして荒稼ぎしていたらしいが、インドに
行って人生観が変わったとのこと。
チェスが好きで、大会に出るのだと言っていた。
わたしは彼と気があった。
フロアには、各自の部屋とは別に共同のリビングスペースが
あり、そこには手作りの卓球台が置かれていた。
その卓球台はテーブル代わりにも使われていて、大家さんが
ソーメンと豆腐と大根おろしという、果てしなく白い食事を
よく振る舞ってくれた。
その食事は質素と言えば質素だったが、みんなで食べると
何だかとてもおいしかった。
そして、食後の卓球。
斉藤さんがやたらに強くて、誰も勝てなかった。
最終的に、わたしは1勝だけすることができたが、それとて
帰国のはなむけに勝たしてくれた気がしている。
ともかく、楽しく食べて、笑いながら遊び、その後は各自の
部屋に戻って作業の続きをする暮し。
それは、考え方によっては町工場のようだったかも知れない。
文字通り「同じ釜の飯を喰う」っていうのは、共同体を存続
させる上で、意外に大切なことだと思ったりする。
良い思い出である。