誕生通知で法事を思う

先週末の疲れが尾を引いているのだろうか?
今週は、やたらと眠りが深い。
泥のように眠るという表現があるが、正にそんな感じである。
朝のまどろみもないままに、起きねばならない時間が来る。
量的にも7時間しっかり寝ていて、結果的にまたぞろ早起き
生活から遠のきつつある。
届いたDVDなんぞを、見ているからでもあるのだろう。
さて、帰宅すると、母方のいとこから、女の子が生まれた
旨の葉書が来ていた。
名を「小春」ちゃんという。
なかなか可愛らしい名前である。
いとこというのは、子供の時には比較的よく会うものの、
大きくなってからはとんと顔をあわせることが無くなる。
葉書をくれたいとこも、前回会ったのは3年ほど前だろうか?
その記憶すら定かではない。
実際、これから先の人生で、もはや数えるほどしか会わない
(会えない)のかも知れない。
縁起でもない話だが、どちらかの家の不幸がきっかけになる
とか…。
そう考えると、法事というのがあらためて喜ばしい仕組みの
ように思えてくる。
人の生き死にに直接関わることなく親戚が集まる機会は、
なるほど貴重な行事と言える。