打つべし!

いろいろとあって、ちょっと落ち込み気味なのである。
無性に身体を動かしたいというか、がらにもなくサウンドバック
なんかを打ってみたい気分。
いささか暴力的か…。
で、思ったのは(と、すぐさま思考に流れてしまうところが軟弱
なのだが)拳の重さは存在の軽さを埋めるためのものではないか
ってこと。
暴走族の出す音は、それによって自分の存在を知らしめようと
するアピールだと思う。
だから、そういう人たちが寂しがり屋というのは、いっかな矛盾
していない。
そして、ボクサーの、あるいは格闘技家のパンチもまた、自分の
存在を確かめるために繰り出されるのではないだろうか。
相手が倒れるかどうかという効果の問題以前に、拳が相手に
当たることをもって、自分の存在を確認するのではないか、と。
しかし、同時にそれはヤマアラシのジレンマとならざるを得ない。
自分の拳が相手に当たる時、そこに生まれるのは友情ではなく、
相手を倒してしまう超越だから。
故に、格闘技家は孤独であらざるを得ない。
いや、だからこそ、負けた方の(とは、拳を相手に当てることの
できなかった)矢吹丈から勝った力石徹に握手を求めたことは、
理にかなっているのかも。
負けたからこそ、拳を開くことができたのだ、と。
う〜ん、何かイイ話になってしまった。
チェストォ〜。